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【価値とは何?】経済学における価値理論がすぐ分かる!

「価値」って何でしょうか?

「価値創造」「企業価値」などなど普段何気なく使っている言葉ですが、
そもそも、価値ってなんでしょうか?

資産価値や企業価値と言ったときの価値は貨幣に換算されますね。
例えば時価総額とか固定資産税評価とかしたときに算定される貨幣価値のことです。

一方で、価値創造といったときの価値は必ずしも貨幣に換算されないです。
新しいビジネスモデルを実行した企業は価値創造をしたと一般的に言えますが、
それをもって企業価値まで結びつけることにはなりません。

ボランティア団体の活動や個人のYouTube活動は価値創造をしているかもしれませんが、
貨幣価値に換算されるかというとそうではないですし、
むしろ、そういった自主的な活動は「貨幣を与えるからやれ」と言われたとしたら、
逆に誰もやらなくなってしまうこともあります。

こうした例をとってみても価値というのはどうも扱いに困ります。

 

経済学における価値の一般原理3つを知ろう!

 

経済学では価値を扱う際に必ずしも貨幣価値に換算されることは前提ではありません。

例えば、現代の新古典派経済学でも中心概念となる「効用」についても、
「序数的効用」と「基数的効用」という2つの考え方があります。

効用:経済学で、財貨が消費者の欲望を満たし得る能力の度合。

序数的効用は「効用が高い順に順番は付けられる」という前提のことです。
一方基数的効用は「効用は数字に対応付けられ、高いほうがより望ましい」ということです。

つまり、「リンゴよりはバナナのほうが好き」というのが序数的効用で、
「リンゴはバナナ何個分好き」というのが基数的効用となります。
一般的には経済学理論では後者、すなわち基数的効用が前提とされていることが多いですが、
序数的効用というより情報が少ない状態でも市場は有効に機能するのです。

価値理論は大きく3つあります。

 

  1. 費用価値説
  2. 労働価値説
  3. 主観価値説

 

費用価値説は古典派の前提とするモデルで、「いくら掛けたか」が価値につながると考えます。

労働価値説はマルクス主義が前提とするモデルで、
「どれくらい労働したか」が価値につながると考えます。

主観価値説は新古典派の前提とするモデルで、
「それぞれがいくらと考えるか」が価値につながると考えます。

 

自分自身の頑張りにはどれくらい価値がある?

 

主観価値説は「誰かがほしいと思ったものが価値である」ということで極めて単純といえます。
単純であるがゆえに消費、生産、分配、貨幣などの経済現象を説明しやすいのです。

主観価値説が「オーストリア学派」と呼ばれるのは、
当時のオーストリア学派では究極的説明の根拠が心理的事実に置かれると主張していたからです。
つまり、経済的本質・価値を「欲求充足」の中に求めたというわけです。

確かにそうだと思います。
早く買い物したいからAmazonを使ったり、コンビニに行きますし、
家族で旅行したいから車を買ったり、バスツアーやホテルを使ったりしますよね。

それは、広い意味で自分の欲求を満たすために価値を見出していることになります。

一方で、「職人が1000時間掛けて作った机(300万円)」も十分魅力的ですが、
「IKEAで販売されている机(3万円)」を買う人のほうが多いですよね。

ダイヤモンドコーティングが1万円で、普通の洗車が500円なのはコストが異なるからですが、
だからといっていつでもダイヤモンドコーティングに価値があるわけでは無いでしょう。
例えば、急いでいるのに車を預けないといけないコーティングより、
15分でピカピカにしてくれる洗車のほうがふさわしいと思う人もいるわけです。

つまり、机の例では労働価値説が否定され、洗車の例では費用価値説が否定されます。

どちらの説も客観的に価値が決められることから「客観価値説」と呼ばれますが、
本当にその価値があると考えていたかどうかは、
やっぱり自分がそれをほしいからで、モノに費やした労働でも費用ではないのです。

これらの話を踏まえると、自分の仕事やその対価についてもこうなります。

「自分は何時間も残業したからこの成果物は価値がある!」と思っていたとして、
上司にこてんぱんにされてしまうのは、その上司は主観価値説を採用しているからです。

私がどれだけブログに時間を掛けたとしても、自腹を切って費用をかけたとしても、
それを皆さんにが「つまらね」と思われたらその意味では価値が無いということになります。

まだ、何かを公にしたときに反応やネガティブな意見が来れば良いのですが、
人間は何か反応することも面倒(コスト)なので、
結果として価値のないものは「無視される」という形になって評価されます。

いや、もちろん私には価値があるからやりますけどね(笑)

 

主観価値だからこそ市場は必要なモノを供給する

 

経済的本質・価値を「欲求充足」の中に求めた主観価値説では、
どんなものでも市場に出回るのでしょうか。

確かにいろいろなモノやサービスが世の中にはあります。

車や電気、食料品やゲーム、漫画、ファストフード、家というモノだけでなく、
美容室、病院、パチンコ、オンラインゲーム、カラオケ、マッサージなどのサービスもあります。

どれもある程度の時間存在し続けているモノやサービスですから、
やはり誰かが必要としているからこそ、売上が立ち、利益が残せるため、
経営・ビジネスが成り立っているということになります。

しかし、市場が自然に生まれることは必ずしも良いことばかりではありません。

週刊誌や水商売、よくわからない輸入サプリメント販売、
YouTubeの炎上動画などは、何となくやってはいけないような心情はありますが、
それを求める人がいるために、売り手と買い手がマッチしてしまいます。

主観価値説を採用したことで経済学は格段の進歩を遂げました。
しかし、それぞれの消費者が手にする効用がどういった価値基準によるものかは説明しません。
あくまで「自分が欲しいと思うから価値がある」ことを前提としているからです。

誰かが必要とするモノやサービスは必ずしも長期的にその人のためになるかはわかりません。
例えばカップラーメンが美味しすぎると食べすぎて血圧があがったり、
偏食で健康が悪くなることは売り手のメーカーからは不都合なので自己責任とされるからです。

一方、経営学において著名な経営学者クリステンセンの最新刊では、
「ジョブ理論」が提唱されています。

これはすなわち、顧客が解決したいジョブを解決することがビジネスの創造であるということです。
これもまた経済学における主観価値説の視点から言える一つの結論です。

そのジョブを解決することで得られる価値の総和が多ければ多いほど、
その仕事は価値ある仕事として認識され、市場は拡大していくのです。

それでもやはり、主観価値説だからといって全てが自由に許されるわけではありません。
ゴルゴ13は現実にはやはり殺人罪に問われてしまいますし、
ゲームセンターで18歳未満は夜10時以降は遊んではいけないのです。

だから、結局はジョブに対して対価を払ってもらえることに加えて、
自分が入手するモノ・サービスが自分の幸せに繋がるかどうかということ、
そしてそれは社会的に許されるのか、今後どうなるのかを考えなければ、
倫理やルール違反としてビジネスが窮地に追いやられることになりかねません。

例えばAirbnbやUberはユーザーに愛された結果として世界のルールを変えるにまで至りましたが、
これは、ユーザーを味方に付けた結果であり、ユーザーが応援してくれないような
ビジネスモデルであったなら、旅館業法やタクシー業務適正化特別措置法などを通して、
ボコボコに批判されただけで終わっていたはずです。
(今でも日本ではUberはタクシー手配アプリとしてしか利用できませんが)

主観的に価値を感じる人を増やすことで対価としてお金を受け取ることがビジネスであり、
そのためのルール(法律・規範)は、世論によって変えることができます。
しかし、その際にも丁寧に主張ができなければ単なる違法行為の烙印を押されてしまいます。

主観価値説は経済学や経営学を前進させましたが、
やはりビジネスでは人のココロや政治についても思いを巡らせなければならないのです。